A cat scratched me.

 太陽が明るく輝く最後の時間、人間達が甘いものを食べる時間、この時間は秋冬ひんやりする石畳も比較的温まっていて、寒がりな猫の足に優しい。ちょこちょこと脚を忙しく動かして、出来るだけ地面に触れないようにして歩くのがくせになりつつある猫のアーサーも、今は四つの足の裏をしっかりと地面につけて歩いている。生えかわった冬毛が風に吹かれ、時々飛んでくる葉っぱがぺしん、と体に引っかかるのがうっとおしいが、この季節の外を歩くのがアーサーは好きだ。なんといっても、気温がちょうどいい。アーサーは秋と春が好きだが、その中でも落ち着いて過ごせる秋が特別に気に入っていた。
 適当に小道を曲がりながら、アーサーはふんふんと空気の匂いを嗅ぐ。朽ちる葉っぱの、成熟する実の、そして人のまとった毛糸や布の匂いがする。人間は毛皮がなくて大変だな、とこの季節になるとアーサーはいつも思う。今朝飼い主が出かける時、寒い寒いと震えながら部屋の中をひっかきまわしていたのを思い出すと、猫らしくないにやりとした表情でもしてみたくなる。夏はうっとおしいくらいの毛並みも、冬になればとても役に立つのだ。
 とっとっと、足音も軽く石畳を横切って、舗装された川に差し掛かる。ここで、アーサーの鼻が違った匂いをひとつかぎとった。探していた、じゃなくて、さっきなんとなく思い出した匂いだ。マーオ、とひとつ鳴いてみると、だいぶ下のほうから、ルルナーオ、とのんびりした声が返ってきた。
 声と匂いを追いかけて、アーサーはひょいと橋の欄干の間から下を見る。この橋には下に降りていく階段がついていて、川の淵のところには広めに煉瓦で舗装された足場がある。人間がそこにいるのを見たことはあまりないが、反対に太陽光で温まりやすいそこの場所はよく猫たちが昼寝に使っている。先ほど鳴き声を返してきた猫も、そこにころんと横になって手足を伸ばしていた。
「にゃん」
 階段を下りていくと、煉瓦の上の猫ことフランシスが短く鳴いた。相変わらず毛が多くて長くて、この季節には素晴らしく過ごしやすそうだ。アーサーだってそれなりに量のある毛並みなのだが、それでもフランシスのさらさらでふわふわの毛にはかなわない。今もフランシスは自分の毛並みを見せつけるかのように、ゆったりと体を斜めにしてくつろいでいる。
「こんにちはアルチュール、今日はそっちから来てくれたんだ」
「別に来たんじゃなくて、偶然通りかかっただけだ。ここはひなたぼっこにいいから」
「そうだね、だって教えてあげたのは俺だもんね」
 満足そうに言って、フランシスがすすす、と左にずれた。長い毛並みが煉瓦にこすれて、アーサーは意味もなくはらはらする。それでも、再び腰を落ちつけたフランシスが「ほらおいで」と優しい声で鳴くので、アーサーは渋々と、あくまでも渋々と、いつものように彼の横にすとんと座った。お互いの体の表面が片側だけくっついて、さらっとしたフランシスの毛並みがアーサーをくすぐる。
「ふふ、今日もぼさぼさ」
 嬉しそうにフランシスが言って、アーサーはそれに沈黙を返した。アーサーの毛並みはなぜかどれだけ整えても、頭のてっぺんや尻尾がぼさっとした感じになってしまう。もともとの毛の質が違うんだよ、といつかフランシスが自慢なのかなんなのか言っていたが、確かにそうなのかもしれない。アーサーは子猫の時から割と毛がぴんぴんと立つ方だった。
「にゃっ、」
 ぺろん、と耳の横をいきなり舐められた。びっくりしたけれど、これもいつものことだ。俺がきれいにしてあげるね、と言って、フランシスは丁寧にアーサーを舐め始めた。毛がいくつか逆立った頭頂部も、背中も、尻尾の方までゆっくりと舐められる。尻尾のひときわ毛が乱れている部分を舐められると、無意識にアーサーの尾が揺れた。
「こら、逃げないで」
「逃げてない、勝手にこうなってるだけだ……にぅ、」
「そう?」
 くるん、とざらざらの舌先で尻尾の先を舐めあげられると、背中がぴりっとする。にゃう、と鳴きたくなくても声が自然に出て、そうするとフランシスはますます勢いづいてあちこち舐めてくるのだ。それはとてもくすぐったくて、だけどすごく気持ちがいい。背中から腹にかけての流れを優しくグルーミングされると、ついごろごろと喉が鳴ってしまう。それを聞いたフランシスは、いつも満足げな顔をしてせっせと毛づくろいを続けるのだ。
「なぁ、フラニー」
「んー?」
「お前こんなことして楽しいか?」
「たのしいよー、それに俺がきれいにしてやらなきゃ、お前いつもばさばさじゃない」
 顎のあたりを舐められて、また喉がごろごろ鳴る。いつもばさばさって言ったって、ちゃんと飼い主にブラッシングしてもらっているんだ、ただ毛が言うことを聞かないだけで。そんなことを頭の中で言って、しかしアーサーは口にはせずにころんと反対向きに寝転がった。新しく上に向いた場所を舐め始めた目の前の猫は、飼い主にいつも手間のかかるブラッシングをしてもらっていて、そのせいで毛並みが物凄くふわふわとしている。
「……にゃー」
「ん、まだだよ。ほら、大人しくね」
「んー」
 優しく撫でられるような感触が気持ちいい。甘えた声が自然と漏れる。煉瓦はぬくぬくしていて、空にはまだ太陽が輝いている。隣のフランシスはとても機嫌がいいらしく、毛づくろいの合間にすりすりと体を擦りつけて寄りそってくる。どこもかしこもとてもあたたかい。
 春だって好きだ。でも、くっついていてあったかいのが気持ちいいのは秋だ。ついでに、この贅沢猫は夏冬は暑い寒いとうるさくて、春になると恋に忙しくなる。こうやってのんびりと、何もなく一緒にいるには秋が一番いい。秋のマロニエの葉っぱとフランシスの毛並みの色は良く似ていて、太陽にあたるときらきらしていてとてもきれいだ。
「……アルチュール、寝ちゃった?」
「んー」
「寝ててもいいよ」
「んー」
 ちゅ、と鼻と鼻がくっつく感触がして、またあちこちを優しく舐められる。ごろごろ喉を鳴らして、アーサーは少しだけ眠ってしまうことにした。

 少し寒くなった気がして、アーサーの意識は心地よいまどろみから戻ってきた。
 目が覚めた時、太陽の位置はたいして変わっていなかった。風はまだ冷たくない。夜はずっと先のことだ。川を挟んで石畳にかこわれた小さな世界の端っこのほうで、フランシスがなにやら熱心に川辺の水をひっかいて遊んでいた。
 くぁ、と大きく欠伸をして、それから自分の体を一通り見てみる。上から下までフランシスはいつも時間をかけて、丁寧に丁寧にグルーミングしてくれる。だから終わった後の自分はまるで違う猫みたいに滑らかな毛並みになるのだが、時間が立つにつれていつものぼさっとした感じに戻ってしまう。今もアーサーの毛並みは全体的には滑らかに寝ているが、ぴんぴんしやすい尻尾の毛はもう逆立ちつつあった。なんとなく惜しいので、自分で舐めてぺたんこにしてみる。
「……フラニー?」
 さっきから何をぱしゃぱしゃと叩いて遊んでいるんだろう。いつもならアーサーが昼寝してもぴったりくっついて起きるのを待っているか、そうでなければ一緒に眠ってしまうのに、今のフランシスは川辺の何かに夢中らしい。彼は好奇心旺盛というか気まぐれなところはあるが、フレディのようになんにでも突っ込んでいくタイプでもない。考えていても仕方ないので、アーサーは自分の熱であたたまった煉瓦から体を起こした。
「フラニー、何してるんだ」
「あ、起きたんだアルチュール。ほらこれ、見て見て」
 楽しそうにちょいちょい、と水面を示すフランシスだが、示されなくてもそこにでっかい何かがあるのはすぐにわかった。オレンジ、いや、赤い塊。名前は思い出せないが、最近はこの辺のどこの家にもこれが並べてある。色はきれいだけど青臭いような匂いがするので、素敵な穴があいていてもアーサーはこれに入って遊んだりはしない。そうすると人間達が怒るのだ。
「ね、おもしろいでしょ?」
 同意を求めるように言われても、アーサーには何がおもしろいのかわからない。だってこんなもの、どこを歩いたって目に入るのに。川の近くにひっかかっているということは川を流れてきたのだろうから、そこだけはおもしろいのかもしれないが、でもやっぱりよくわからない。
 アーサーが困っていると、フランシスが「あ、そこじゃ見えないか」と言って、前足を引っかけてくるりとそのオレンジの塊を裏返した。よく見たらオレンジはそこらへんにあるのとは上下が逆になっていて、てっぺんに穴があいている。というか、目も口も上下が逆だ。ようするにこのオレンジは逆さまになって川を流れてきたらしい。フランシスが言っている面白いはそのことなのだろうか?
「……えっと、逆さまだからおもしろいのか?」
「何言ってるの違うよ。ほら、この顔この顔」
「顔?」
 顔と言っても、目と口があるだけだ。つり上がった目と、牙が両端に生えた口。でもよく見ると確かに少し面白いというか、変わっている感じはする。
「お前に似てるでしょ?」
 ね、と嬉しそうにそのオレンジをつっつきながら、フランシスがほにゃりと笑った。似てる、といわれれば似ている気がするけど、何か違う気もする。だいいち、それはただのオレンジ色の植物だ。でもフランシスは、飽きることなくそれをつついたりくるくる回したりして遊んでいる。アーサーを放っておいてもいいくらいにそれが好きなのだろうか。アーサーといるより楽しいのだろうか。
「……フラニー、どけ」
「あ、アルチュールもつついてみる? ぽこぽこしておもしろいよ」
 ひょい、とどかれて、目の前にオレンジが来る。つん、とつつくと頭が水に乗っかっているせいでゆらゆらゆれて、確かにちょっとおもしろいかもしれない。でもこれはあんまり好きじゃない。
 もう一つオレンジをつついててから、アーサーはそのにまにま笑っている口の下を、思いっきり爪を出しながらひっぱたいた。がりっ、という音が予想以上に大きかった。
「あー!」
 後ろでフランシスが嘆きの声を上げた。口の下に爪の後の四本線。強く引っ掻いたからしっかりとした傷になって残っている。ざまみろ、とにやっとしたところで、橋の上から「こら!」と誰かに怒られた。
「げ」
 黒とか白とか青っぽい色とかの服と帽子の人間。あれはけいかんという生き物で、外で悪いことをして遊んでいる猫を連れて行ってしまうとかいう噂だ。実際アーサーの友達のたまが、一度間違って連れて行かれそうになったこともある。あのけいかんという生き物は、明らかにアーサー達を見ていた。
「アルチュール!」
 呼びかけに頷いて、さっと道を別れて逃げる。アーサーは川を覆う壁やツタのでっぱりをうまくとらえながら橋の反対側まで登り、フランシスは大胆にもけいかんのいる橋の階段から道の方に戻った。けいかんも二匹を追うつもりはあまりなかったのか、さっさと煉瓦の川べりに降りてくれたので、その隙に二人は一目散に逃げ出した。
 しばらく街を走って、後をけいかんがついてきていないのを確かめてから、二匹は道の端に腰を下ろした。まだちょっとどきどきしている。
「あぁ、びっくりした。アルチュール、大丈夫?」
「別に平気だけど、あいつなんで怒ってたんだ?」
「えーっと、あのオレンジので遊んでたから、かなぁ」
 フランシスが言って首を傾げる。それならあのオレンジは良くないものだったのだ。だってなんか気に食わない感じだったし、と思い出して、アーサーは猫のくせにはっきりした眉毛をきゅっと寄せた。
「フラニーがあんなのと遊ぶからけいかんが来たんだ」
「違うよ、きっとアルチュールがあれを引っ掻いたからだよ。あれは引っ掻いちゃいけなかったんだよ、だってあれに何かすると人間はいつも怒るじゃん」
「それならお前だってあれをつっついてただろ。絶対フラニーのせいだ」
「違う、アルチュールのせい!」
 にゃーにゃーとお互いに相手が悪いといいながら、それでも二匹はくっつく。なぜかといえば石畳が冷たくて、そして風もそろそろ冷えてきたからだ。昼寝したくても出来ないくらいの時間になってきた。道を行く人間達も寒いのか、近くにいる人間にくっつくようにしている奴らがたくさんいる。誰かがアーサー達を見て、猫はいいわねぇと言った。
「ふぁ、」
 なんとなく欠伸が漏れる。隣でフランシスも欠伸をしていた。びっくりして走ったせいで少し疲れたのかもしれない。あったかいところに行ってのんびりしたい、と思ってから、アーサーは一層くっついてきたフランシスに尻尾までぺとっとくっつけてやった。この猫は毛が長いくせにアーサーよりも寒がりという仕方がない奴なのだ。アーサーがあっためてやらないと、地震でも起こったみたいに震えだすかも知れない。
「ねー、アルチュール。寒くない?」
「寒い。屋根あるところにそろそろ行きたい。……あ、でも俺のうち今誰もいないかも」
「じゃあ俺んち来てよー。そんでストーブのところでもっかいお昼寝しよう。俺なんだか疲れちゃった」
 もう一つ欠伸をもらして、フランシスが大きく伸びをする。尻尾が伺うようにアーサーの胴体をすりすりと撫でた。
「家にちっちゃい子がいるからねだればオヤツももらえるしさ、ね、一緒に行こう? さっき放っといちゃった分のお詫びに、もっかい毛づくろいしたげるし」
「べ、別にあんなこと気にしてねぇし!」
「ふーん、じゃあ俺が寝るまで一匹じゃ寒くてさみしいから一緒に寝てよ。いつも毛づくろいしてあげてるお礼ちょうだい」
 見透かしたようににやりとされて、またちょこんと鼻と鼻の先を合わせられた。少し恥ずかしい。ねぇいいでしょ、とフランシスがさらにぴたっとくっついてきて、そのくっついた部分がやっぱりすごく温かかったので、アーサーはこくんと頷いた。
「まぁ、フラニーは寒がりだし、仕方ないな」
「ふふ、ありがとねアルチュール」
 背中に擦りつけるように顔を寄せられて、アーサーの毛皮の中がぽかぽかしてきた。なんだかわからないが、尻尾のあたりがむずむずする。
「……っ、だったらさっさと行くぞ!」
「はーい。あーあ、しばらくあの日向ぼっこ場所、行けないのかなぁ」
 残念そうにナーオ、と鳴いて、フランシスが立ちあがった。アーサーも立ち上がりながら、誰にも秘密の、とてもあったかい場所のことを思い出す。今までその場所はずっとアーサー一人のものにしてきたけれど、もしどうしてもフランシスが寒くて日向ぼっこしたくてたまらないというなら、教えてやらなくもない。前にあの川べりの煉瓦を教えてもらった時のお礼ってことにしてやろうと思う。
 通りがかる人間たちの中に、なんだかふわふわしていたりごつごつしていたりする子供が混ざり始めた。誰も彼もが甘い匂いを漂わせている。ぴったりとフランシスに寄りそって歩きながら、アーサーは夕焼けの空の向こうに、真っ白な冬の気配を感じていた。